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第46回 2003年のハラウ

投稿者: ハワイ歩き方事務局 更新日:2003年01月15日

2003年のハラウ


●ハラウが再開
12月末からの2週間の休暇が明けて、ハラウが再開されました。といっても、私は4月まで休学していて、クラスには出席していないので、現在の状況は全く分かりませんが、1月にアラカイ達に出会う機会がありました。女性のアラカイ達の中には育児休暇中の人や家族を伴って隣島に引っ越しする人など、久しぶりに会うと、各々の生活の変化を垣間見ることができました。また、数年前に練習によく連れて来ていた赤ちゃんが、私とあまり背の高さが変わらない子供に成長していて、時の流れを感じてしまいました。その場で聞いた話によると、 年が明けて、通常のクラスの他にメリーモナークに向けて特別練習も始まったこと、初めて大会に参加する若いダンサーが多いので、まだまとまってはいないものの活気があること、クムはフロリダのディズニーワールドにポリネシアンショーをプロデュースに出かけたこと、などがハラウの近況といったところでしょうか。

さて、今回は、興味深い新聞記事をご紹介しましょう。「ハワイアンネームの種類」といった身近な話題から、「ハワイの統治権を主張する活動家について」といった政治絡みの話まで、とても内容の濃いものですが、インタビュー形式なので読みやすくなっています。原文を読みたい方は 、こちらをご覧下さい。以下、私が気に入った部分だけ要約してみました。

●Kumulipo クムリポ
Rubellite “Ruby” Johnsonは1983年にハワイ州の本派本願寺より“Living Treasure of Hawaii”と評された系図学者で、専門はハワイ創造のチャント、クムリポの研究とその再翻訳です。元来、「音を出すものより話される事柄」の方に興味を持つ性格から、クムリポに興味を持ち、チャールズ・ダーウィンが進化論を導いたように、彼女もハワイアンに「関連の理論」を見たかったのだそうです。彼女に言わせると、「物事や身の回りの環境には関連性があるものの、昨今その事実に気付かなかったり知らずに過ごす人たちが増えた」そうです。つまり、オピヒを好んで食べてもオピヒがどこからやって来たのか知らない、といったように。ハワイ大学で教鞭を取りながら、クムリポのチャントに世界を見ることができると説明しています。

私たちのハラウの公演でも最初に紹介されていますが、クムリポは唯一、創造主、男性の神なのです。この創造主の力により、全てが抽象から具体へと変化し、神は人間を造りました。チャントの起源は、まだポリネシア民族が西ポリネシアに入植する以前で、今から2万6000年前とも800世代前とも言われています。 南中国の海岸で紀元前3000年頃のマラヨポリネシアンの手斧が発掘されたことから、そもそもポリネシア民族、ハワイアンは南東または南アジアに由来すると言えるそうです。

●チャントの記録
クムリポを最初に記録したのは David Maloという系図学者で1830年代のことですが、チャントが記録されたのはずっと後年になります。カラカウア王の統治下(1874-1891)、質問者たちがモロカイ島に渡り、モロカイの聖職者たちによりヒプウというコードを使ったチャントが記録されました。後に、 Adolf Bastianによりドイツ語に、続いて Joseph Rock によりドイツ語から英語に翻訳されました。一方、リリウオカラニ女王は幽閉されている間、クムリポの英訳に取り組んだと言われています。これらの翻訳には翻訳者の背景に応じて差異が見られます。例えば、 Bastianは人類学者であり歴史学者でもあったので、その訳には予想とか予知と言った面が強調されています。チャントが何を強調しているかは翻訳者により主張も様々です。たとえば、Martha Beckwithは1951年に数人のハワイアンの資料提供者の助けを得てクムリポを訳しました。1人の資料提供者は女性でしたので、「全世界は人間の子供が誕生する時のように生まれたのだ」と主張しました。他の2人は男性で、もっと歴史的な観点に注目しました。原住から移住、そして入植、さらに神として奉られることになった16世紀のロノイカマカヒキに至るまでを綴っています。2600行あるチャントは、紙に綴られるようになるまで特定の人たちにより記憶されました。間違いは許されず、間違えた人たちは命を落としました。

●カプの消滅
1819年まで1つも欠けることなく続いたカプ(宗教的タブー)はキャプテン・クックや他のヨーロッパからの上陸者により禁止されたといわれていますが、事実は別の話です。リホリホ(カメハメハ2世)王と高位聖職者達によりタブーの継続が禁止されました。禁止の理由で有力なのは、身体的犠牲が挙げられます。例えば、漁業のタブーとして、アクからアクレのシーズンに替わる6か月ごとに片目玉を捧げたり、近親者が他界すると愛情を示すために頭を石に何度もぶつけて歯を捧げたりしていました。

Na kanaka e noho ana I ka ‘aina ルビーはあくまで学者であって、ハワイの独立を主張する活動家ではないことを強調しています。1848年のマヘレ令によれば、カメハメハ3世は市民権をハワイアンの血を引く人たちだけに制限した訳ではありません。むしろ、制定はハワイに来て居を落ち着ける全ての人たちを含むのです。Na kanaka e noho ana I ka ‘aina,すなわち、住んでいる土地について主張する権利があるということです。

この記事を読んでハワイアンの起源がアジアにあることを知ってちょっと嬉しくなり、こんなに記憶力が悪くてはいくら命があっても足りなかったので、現代に生きていて良かったと思いました。でも、片目や歯がない人たちばかりが周りを歩いていることを想像したらちょっと恐くなりました。系図学者と人類学者の違いがよく分からないけれど、もっともっと話が聞きたくなりました。

ハワイアンネームについては来月ご紹介の予定です。

(Kawailani)

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