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ハワイ歩き方事務局

ハワイズ・プランテーション・ビレッジ

投稿者: ハワイ歩き方事務局 更新日:2004年06月01日

ディナーショーやフラダンスにサンセット・クルーズ… ハワイには楽しいアクティビティがいっぱい揃っています。このコーナーでは、家族連れやグループでハワイ旅行を満喫できるアクティビティ情報を随時、ご紹介しています。

ハワイズ・プランテーション・ビレッジ

Hawaii’s Plantation Village



20世紀初期のハワイへ誘う「タイムトンネル」(上)、中国人会議所(下)

ホントにあったタイムトンネル
SF映画や小説に登場する「タイムトンネル」。「ポッカリと口を開けた暗いトンネルを通り抜けると、そこには異次元空間が広がっていて…」。そんなスリリングなストーリーにワクワクしながら、話に夢中になってしまったことが、誰でも一度や二度はあるはずですよね。が、いつの間にか、「実際には、そんなエキサイティングな空間なんて、あるわけないしね…」と、現実に引き戻されてしまうもの。ところが、「あったんです」。そんな不思議なトンネルが。その名も、まさしく「タイムトンネル」。くぐり抜けると、そこはなんと20世紀初期のハワイ。古びた長屋が軒を連ね、耳を澄ませば、蒸気笛さえ聞こえてきそうな、この不思議な空間を、折角ハワイに来たなら見逃さないでくださいね。



ポルトガル人の家にはパンを焼く釜戸(上)、各建物の側には祖国ゆかりのフルーツや木の実(下)

砂糖キビ・プランテーションの集落を再現
ハワイズ・プランテーション・ビレッジは、「ワイケレ・プレミアム・アウトレット」で知られる、オアフ島北西のワイパフ地区にあり、緑豊かな自然に囲まれています。ビレッジ内には、砂糖キビ産業が全盛だった頃のプランテーション内の集落を再現。まず、足を運びたいのが、敷地内に併設された教育センターです。ここで、日本語ガイドさんが資料の一つひとつを詳しく解説してくれます。ちょっとしたピクニック気分で散策できる戸外の集落内には、床屋や公衆浴場、商店、事務所、診療所、会議場などが建ち並び、産業の主な担い手となった中国人やポルトガル人、日本人、フィリピン人、韓国人が、それぞれ祖国の生活風習を持ち込み、肩を寄せ合って生活していた様子が伺えます。互いの建物が接近している印象を受けるかもしれませんが、実際のプランテーションでは大抵これよりも住居がもっと密接していたと言われています。



日本人家屋(上)と韓国人家屋(下)。生活風習の違いも分かり易い

ハワイに最初の砂糖キビ・プランテーションができたのは1835年。当時、プランテーションで働いていた地元の労働者には、住居や食料、医療サービスなどの他、男性には$9、女性には$6の月給が与えられていました。当初は現金支給ではなく、プランテーション内だけで使える「引換券」で支払われ、労働者の呼称はなく、変わりに「バンゴー」と呼ばれるIDナンバーが割り振られていました。その後、プランテーションの規模は、アメリカ本土で砂糖の需要が拡大するにつれ、巨大化し、1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュ、1861年の南北戦争を経て、1875年に互恵条約(ハワイからアメリカ本土へ砂糖の非課税輸出を認めた条約)が結ばれるに至り、プランテーション経営者たちは一挙に資本を巨大化しようと虎視眈々としていたのです。



プランテーション内の公衆浴場(上)や歯科診療所(下)

過酷な労働環境で働く各国からの移民たち
当時のハワイは依然、独立した王国でしたが、流入する外国人によってもたらされた伝染病などで、原住民の人口が激減し、プランテーションでの労働力も不足し始めます。そこで、精糖の技術を持ち、且つ、低賃金労働者としてまず白羽の矢が立てられたのが中国からの労働者。続いて、日本、韓国、ポルトガル、ノルウェー、プエルトルコ、フィリピンからも労働者として続々と移民が流入しました。プランテーションでの1日は、朝5時の蒸気笛で始まり、5時半には出勤。これを怠ると、見回りの警察官に叩き起こされることもあり、その後、30分の昼食休憩を挟むだけで午後4時半まで働き詰め、夜8時の蒸気笛で消灯、という毎日を、労働者たちは繰り返していました。



フィリピン人管理者の屋敷には冷蔵庫や電話も(上)。商店(下)

プランテーションでは、敷地全体を見下ろす高地に管理人の屋敷が建てられ、そのやや下に「ルナ」と呼ばれる現場監督者の住居があり、労働者は平地に建てられた長屋や寮に住んでいました。再現されたプランテーションを見ても分かる通り、労働者の住居は国ごとに分かれて建ち、新たに移民が流入するたびに、次々とブロックが増えていきました。一般に、労働者の住居は過密で非衛生的でしたが、同じ言葉を話し、同じ文化を持ち、祖国を同じくする者同士が共に生活することで、「労働者たちの間に、次第に連帯感の意識が芽生えてきた」といいます。こうして、労働者たちの生活状況はプランテーションでのライフスタイルに慣れるにつれ、向上していきました。



敷地内の教育センター(上)ではガイドさんが詳しく説明(下)

今後がますます楽しみな観光スポットの注目株
1976年に有志の集まりで始められたハワイズ・プランテーション・ビレッジの建設構想は、現在も膨らみ続けています。82年に最初の展示用の建物が完成し、92年には一般公開されるようになった建築物は、公開に先立ち、入念に修復、復元され、敷地も整備。将来的には、見学者がプランテーションの生活に直接触れられるプログラム、例えば、ポルトガル館のオーブンでパンを焼いたり、豆腐屋でオカラや豆腐を作ったり、商店で実際にお菓子やお土産の販売も計画されています。また、管理人の館や、学校などの建物を導入することも予定され、実現すれば、さらに有意義なひとときを過ごせるスポットになりそうです。


ハワイズ・プランテーション・ビレッジ

場所:94-695 Waipahu St., Waipahu, HI 96797
電話:(808)677-0110(要予約)
開園時間:9:00〜15:00(月〜金)、10:00〜15:00(土)
料金:大人$10、子供(5〜17才)$4(日本語ガイドツアー付き)
ホームページ:www.hawaiiplantationvillage.org

砂糖キビ・プランテーション労働者のお話

◎労働者の悲哀が滲む「ホレホレ節」
「行こかメリケン、帰ろかジャパン、ここが思案のハワイ国。1回、2回で帰らぬ者は、末はハワイのキビの肥。雨が降りゃ寝る、日和なら休む、空が曇れば酒を飲む。条約(農園との労働契約)切れるし、頼母子(たのもし:共済資金)ゃ落ちた、国の手紙にゃ早よ戻れ。条約切れるし、未練は残る、ダンブロ(農園の外側)のワヒネ(女性)にゃ気が残る。条約切れたら、キナウ(船の名)に乗って、行こうかマウイのスペクルへ(自由労働者の耕地)♪」

過酷なプランテーション労働に耐える労働者たちの哀歌として農園に響いた「ホレホレ節」。「ホレホレ」とは、砂糖キビの鋭い枯れ葉を言い、労働者たちは枯れ葉の切っ先で傷を負いながらも労働に従事しました。広島県の「籾(もみ)すり唄」を元にしたと言われるこの唄は、米国本土に永住できず、かといって思うように資金が貯まらず、日本へも戻れないという移民労働者の焦りと諦めが込められ、その歌詞からは、拝金主義や自由礼賛、職務怠慢など、当時の農園労働者の傾向が伺われます。

参考:中嶋弓子著「ハワイ・さまよえる楽園ー民俗と国家の衝突」(1993年)


(2004年6月取材)

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