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キョーコ
人気連載「ハワイに感謝!キョーコと明子のローカル自慢バトル」

バトルその4:ハワイの病院

投稿者: キョーコ 更新日:2016年02月24日

Kyoko & Akiko's "Mahalo Hawaii" vol.4 Hawaii's Hospitals

話題の人気ショップよりも、近所のパパママストアや老舗店をこよなく愛し、サイミンにはからし醤油をつけ、キカイダーに敬意を払い、ピジン英語もお手のもの …。そんなハワイのローカルライフにどっぷり浸かったライターのキョーコ(地元日本語日刊紙「ハワイ報知」元記者)とMyハワイ編集部明子(地元日本語月刊誌「ハワイパシフィックプレス」元記者)が、ハワイへの感謝の気持ちをこめてお送りするこのシリーズ! 観光情報とはひと味ちがう、目抜き通りから1本奥に入った知られざる、そして愛すべきハワイのローカル情報をお届けします。毎回テーマを決め、それについて綴ったエッセーでローカル度を競うローカル自慢バトル。2人とも友情にひびが入る覚悟で臨む真剣勝負です。応援よろしくお願いしま~す。2人のプロフィールはこのページの一番下をご覧くださいね。

■明子のエッセイ:日系人御用達のクアキニ病院

ハワイの病院

 

実は今回の原稿は、ベッドの中で書いています。と、いうのは先日、地元大阪の老人病院にやっと入所が叶った父の見舞いと母の手伝いをかねて、9日ほど日本に里帰りしていたのですが、日本でバッチリとインフルエンザに感染してしまったらしく、帰国と同時に発症、這々の体で病院に駆け込んだところ、5日間は絶対安静(&隔離)と命ぜられてしまったからなのです。とういうわけで、今回のテーマは無茶振りですみませんが、「ハワイの病院」にしませんか、キョーコさん?

■関連情報/ ハワイの緊急医療サービス

すでにお聞き及びの方も多いかと思いますが、アメリカには日本のように「国民健康保険」というものがありません。無保険だと医療費は天井知らずに跳ね上がり、すべての財産を失い破産へまっしぐら…というのも、あながちハワイではありえない話ではありません。なので、保険が非常に重要で、そのカバー率などによっては、手術を見送ったりしなければならないこともあるのです。

実は私、留学生としてハワイに来た時は、とても安いながらカバー率もイマイチの学生保険に加入しておりました。「体も丈夫だし、どうせ掛け捨てなら安いものを」、と。

ところが修士論文も提出し、就職先もきまり(はい、Myハワイ編集部ですね)、ほっと気が緩んだある日、編集部で打ち合わせの最中にひどい「さしこみ」が! それはもう、目も眩まんばかりの痛さで、救急車を呼ぶと高いと拒否し、夫(当時はBF)の車で転がり込んだのが、リリハにあるクアキニ病院。

元は、「日本人慈善病院」という名で、ハワイに住む1世の日本人とその子孫のために建てられた病院です。今はもちろんすべての人種に門戸を開いていますけどね。当時、義妹がクアキニで呼吸療法師長を勤めていたので、夫が気を配ってクアキニに運び込んでくれたのです。これが正解でした。クアキニは何から何まで私好みで(質実剛健でローカルっぽい優しさ、気安さに満ちているのです)、以来ホームドクターもクアキニ内のT先生にし、長い付き合いが続いています。

さて、学生だった私が救急室で診断されたのは「急性胆のう炎」だったということ。「一刻も早く胆のうを取らないとガンになるかも!」という、怖い見通しでした。しかし、貯金もなく学生保険しかない私に胆のう摘出とは…。就職先から良い保険は提供されますが、それは1年先にならないと使えません。

ハワイのローカル番組病院

 

体調よりも何よりも、心配なのはお金のこと。志半ばにして勉学をあきらめ破産して故郷に帰るわけにはいかないのです。なので、ベッド脇に来てくれたドクターに(なんと日本出身の素晴らしい外科医の先生、M先生でした)、おそるおそる相談したところ、「それでは様子を見ながら、保険が届いたら手術しましょう、何とかなりますよ!」と、貧乏学生の懐状況をとてもよく理解してくださったのでした。一年間油物を全く抜いて生活したところ、お肌はカサカサになったものの痩せ(今はリバウンドしましたが)、晴れて保険を手にしたその月に、無事に手術を受けることができました。

また、一昨年前には、働きすぎたためか(または更年期? ストレス?)いきなり側頭葉てんかんになってしまったのですが、これまたすぐにT先生のもとに駆け込み、同病院内の脳神経科医H先生を紹介してもらいました。そのH先生に処方してもらった薬を真面目に飲んでいたところ、今はすっかり完治。もう発作が起こったことすら遠い昔のようです。H先生も、立派な先生なのに、いつもジョーク一杯の超気さくな雰囲気で、毎回会うのが楽しみでした。

M先生とT先生は日本出身、H先生はハワイ出身の日系人で、それぞれに世代も違いますが、皆に共通しているのがとにかくポジティブで優しい、全く偉ぶっておられないということでしょうか? 全員ご近所のおっちゃんやお兄ちゃんのようです。M先生とT先生はハワイ在住歴も長く、英語も目をつぶって聴いているとローカルの人のよう。私が目指す、「ハワイに溶け込み貢献している日本人」そのもので、同僚のお医者さんや看護師さん達からの信頼もあついのがよくわかります。

クアキニ病院、いいですよ! 先生達は皆素晴らしく、ハワイ大学の学生さんや日本からの研修生さんたちもよくみかけます。皆が一生懸命で、優しくて、なんともいえない良性なムードが癒されるのです。

■キョーコのエッセイ:「渡鬼」も「はぐれ刑事」も知っているクイーンズ病院の麻酔医

ハワイのローカル番組

 

明子さん、具合はいかがでしょうか。弱っている人をあまり攻撃しては申し訳ないので、今回は控えめなローカル自慢にとどめておきます。

ワタクシは子どものころから病院が大の苦手でございまして、風邪も腹痛も頭痛も発熱も、「風邪ラッキーA」や「赤玉はら薬」「づつほがらか」などといった富山の薬、それと気合いで治しております。ただ最近は年齢のせいでしょうか、気合いなどではとても太刀打ちできず、しばしば医者の世話になっておりますが…。

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毎日仕事と雑用に追われ、疲れでヘロヘロになってはいますものの、有り難いことに、これまで大病や大けがなどで入院した経験はございません。唯一の入院といえば、娘を出産したときでございます。

ハワイではカピオラニ婦人・小児科病院で出産する人が断然多いようですが、ワタクシは家から近いクイーンズ病院(正式名:クイーンズ・メディカルセンター)を選びました。担当の産婦人科医から「出産の入院患者が少なめなのでバタバタしていない」と言われたのもありますが、以前クイーンズ病院で出産した友人の「出産後のディナーにはロブスターが出るのよ」という言葉で心は決まりました。

ハワイのローカル番組

 

クイーンズ病院は1859年にカメハメハ4世とエマ王妃によって創立された州最大の病院です。

さて、予定日を1週間ほど過ぎたころ、「これはホンモノだ」という陣痛に襲われ、クイーンズ病院に夫の車で向かいました。なんと担当医はバケーションをとってしまっており、代理の先生が立ち会ってくれることになりました。

代理の先生は担当医よりかなり若い、韓国系の優しそうな男性でした。会うなりエピドーラルという無痛分娩の注射を「もう打つ?あまり我慢しないでいいよ」と言ってくださり、まだ頑張れそうでしたが「打っていただけるのなら」とお願いしました。

無痛分娩を嫌がる人の多くは、この注射が「痛くて怖い」と。そして病室にやってきた麻酔担当医の男性を見て、ワタクシの恐怖心と緊張はマックスに達したのでした。

佐野史郎さんが演じた「冬彦さん」にそっくりのその先生、入ってくるなり大声で「アー ユー キョーコサン?ニホンジン?」と尋ね、そうだと答えると、さらに声は大きくなり「(ここからは英語で)私、KIKUの日本語テレビ番組を大好きでよく観ていますよ」と満面の笑みを浮かべておられます。

「今、ここでKIKUの話をするかね」とワタクシ、陣痛の痛みも吹っ飛びました。

本番の注射の前に麻酔の注射をすることを“サッサと”説明すると、先生はまた日本語テレビの話題に戻り、「私の好きな番組は“そこが知りたい”」と。さらに脊髄注射を打ちながら先生はワタクシに「好きな番組は何か」と尋ねてきまして、脊髄にズーンという軽い痛みを感じながら(そしてこのタイミングで話し掛けるなよと思いながら)ワタクシは「渡る世間は鬼ばかりぃぃ…」と必死で答えました。でもこの冬彦先生、腕は確かなようで、痛みはあまり感じませんでした。

「幸楽ラーメンの姑がイジワル」ってことを知っている麻酔科の先生がいるなんて「さすがハワイ!」。そんなちょっと笑える人生初の出産、入院体験を通じて日本との強いつながりをここハワイで実感したワタクシでございました。ちなみに先生は藤田まこと主演の「はぐれ刑事純情派」も大好きということでした。どうでもいいか…。

そうそう、ロブスターなんて出ませんでしたよ〜。「ロブスターは?」って聞いたら、配膳係の人に笑われてしまいました。友人はきっと麻酔後の妄想で食べた気になっていたんでしょうかねえ。明子さん、どう思います?

キョーコのプロフィール

キョーコ

神奈川県の鵠沼生まれ、茅ヶ崎育ち。丙午のバブル世代。
1988年からハワイ在住。日本語が飛び交わない米本土の田舎町に留学しようとしたが、父親に猛反対され、交渉の末に決まった留学先がハワイ。

家族

学生時代に知り合った韓国/日系4世の夫と、40歳目前でやっとこさ授かった娘の3人。大規模な再開発計画が進行中のオアフ島カカアコ地区在住。

ローカル歴

1991年からハワイ観光局マーケットリサーチ部にインターンとして勤務、翌年からフルタイムのアジア太平洋地区担当職員に採用される。ローカル率95%の職場で、ハワイアンカルチャーやピジン英語、さらには「仕事は楽しく、職場にはおやつ常備」の精神を学ぶ。

入社5年後、マーケットリサーチの仕事が外部委託されることになり、部署解散。翻訳業などを経て、1998年から創業1912年の日本語新聞社「ハワイ報知」に編集部員として勤務。日系退役軍人や県人会、ゲートボールクラブ、舞踊団体、文化交流グループ、日系食料品店など、さまざまな分野の取材を通じてローカルライフにどっぷりと浸かっていく。

ハワイに支部がある日本の俳句結社「ゆく春」の主宰と取材を通じて知り合い、俳句に魅せられる。数年に渡る主宰からの添削指導を受け、時間のあるときに「ハワイ歳時記」をもとにハワイらしい俳句をぽつぽつと詠んでいる。最近短歌をはじめた明子女史にライバル意識をメラメラと燃やしている。

2013年思い切ってフリーランスに。ハワイ報知のほか、ハワイアン航空機内誌「ハナホウ」やMyハワイなどでローカル情報やハワイアンカルチャーに関する記事の執筆、翻訳作業に関わる。

好きな言葉

ハワイアンスタイルバンドのヒット曲のタイトルにもなった“live a little(もっと人生楽しもう)”。更年期とミドルエイジクライシス(中年の危機)に陥り気味の自分に言い聞かせている。

キョーコのブログはこちらからご覧ください。

明子のプロフィール

明子

福岡県福岡市生まれ大阪府堺市育ち。
現在はオアフ島モアナルアバレー在住。同じくバブル世代。1999年からハワイ在住。

家族

夫(中国、ポルトガル系、その他もろもろ。ハワイ島カウ生まれ、オアフ島パウオアバレー育ち)。義母(ポルトガル系。ハワイ島カウ生まれ)。子なし。

ローカル歴

大伯父2人がハワイ島のプランテーションに移民。1人は日本に戻るが、もう1人は契約終了後もハワイに残り、オアフ島で内装業を営む。子ども時代より、大伯父から送られたマカダミアナッツなどに親しみ、ムウムウ着用。大学時代、オアフ島リーワードに居住していた叔母の家を訪ね、一瞬でハワイの虜に。将来ここに住むと一人誓う。

1994年、語学研修にハワイへ。3ヵ月のつもりが縁あって1年半滞在。その後就職し貯金に励み、1999年ハワイ大学(UH)アジア太平洋研究科に入学。大学&大学院と通算7年通う。学生時代にMyハワイ(当時はハワイの歩き方)にて、大食いクラブ会長A子の名前でB級グルメ情報やB級生活情報などを連載。ハワイのパパママストアをこよなく愛するようになる。

並行してハワイ出雲大社でボランティアをはじめ、その縁でHawaii Pacific Pressでインターン&弟子生活。弟子生活は10年以上にも及び、442連隊、MISなどハワイならではの歴史に心惹かれるようになる。また、YOH(ヤング・オキナワンズ・オブ・ハワイ)という盆ダンスクラブにも加入。退部した今でも沖縄系の盆ダンスの振り付けはばっちりで、あまりの踊りっぷりに驚かれること多数。

某取材でキョーコさんを紹介され、年齢が同じ&共通点多数で意気投合。Myハワイに誘う。紆余曲折を経て、今回の連載が実現。キョーコさんの俳句に対抗したわけではないが、昨年、隔月短歌同人誌「ふゆみどり」を何気なく手に取りいたく感激、ハワイ短歌会に入会。久々の若手気分を味わっている。

好きな言葉

“If can can if no can no can (やれたらやるし駄目なら駄目、気楽に行こうぜ的なピジンのスラング)”。

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関連キーワード: クアキニ病院, クイーンズ・メディカル・センター, ハワイの病院,

3 responses to バトルその4:ハワイの病院

  1. 初めまして!
    私、宮田 和華子と申します。
    17日より、ワイキキに4日間滞在します。
    ハワイ在住の日本人の方とお知り合いになりたくて、コメントさせて頂きます。
    笑いヨガ、ラフターヨガに携わっています。
    ホノルル動物園そばに宿泊します。
    近くの病院、高齢者施設に慰問に行きたいと思い、こちらに辿りつきました。
    よろしくお願いします。

  2. なんとあの灰田兄弟のお父さんがクアキニに勤務しておられたのですね!日本人慈善病院のお医者様として、活躍されたのでしょうね。素敵なお話をありがとうございました。

  3. 古い記事にコメントしてすみません。
    クアキニ病院の設立当初、日本で有名になった「灰田勝彦、有紀彦」兄弟の父、灰田勝五郎医師も医学管理副責任者として勤務していました。
    灰田医師は、1885年の官約移民の第1回目の船でハワイに来て、マウイのパイア耕地で働いたのち、31歳の時にカリフォルニアのクーパー医科大学(後でスタンフォード医科大学になった)に入学し、卒業したのちしばらくカリフォルニアで働きました。
    1900年に広島に戻る途中でホノルルを再訪し、当時のホノルルは黒死病が流行していたためチャイナタウンなどが焼き討ちにあっていた現状を目にし、当時のホノルル総領事によって説得されホノルルに残ることを決意しました。

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