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Akiko
人気連載「ハワイと日本、人々の歴史」

第14回 日系2世が力を合わせて作った、セントラル・パシフィック・バンク

投稿者: Akiko 更新日:2014年04月23日

Hawaii-Japan: People's History vol.14 - Central Pacific Bank

第14回 日系2世が力を合わせて作った、セントラル・パシフィック・バンク

ハワイ日系移民の歴史

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々や出来事に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。今回は、「すべての人々、特にハワイの移民とその子孫にサービスを提供したい」との強い思いのもと、今からちょうど60年前に創立されたハワイの銀行「セントラル・パシフィック・バンク」の歴史を紹介したいと思います。

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ハワイ日系移民の歴史

ハワイで4番目の規模を誇り州内に39の支店を持つ、セントラル・パシフィック・バンクが今年創立60周年を迎えたことを祝し、ホノルル市ダウンタウンにある本店前には「レガシー・ウォール(遺産の壁)」が建立されました。創立者へのトリビュートとして建てられたレガシー・ウォールには、創立者の一人、エルトン・サカモト氏の言葉、「All we had was this Dream(私たちはただ夢だけを持っていた)」という言葉共に、「A Vision(展望)」、「Perseverance(忍耐)」、「The Legacy(遺産)」の3部に分かれて、銀行創立の物語が綴られています。

1945年、たくさんの尊い命が失われ、第2次世界大戦が終わりました。ハワイでは、以前にも述べましたが、祖先の国が敵国であると言う理由で苦難を強いられた日系2世の若者たちが、祖国アメリカへの忠誠を示すため、ヨーロッパ戦線を中心に勇猛な活躍を示しました。戦争が終わりハワイに帰郷した2世兵士たちの多くは、通称GIビル(復員兵士支援法)により大学や大学院で学ぶチャンスを得、社会進出への足がかりをつかもうとしていました。

彼らの英雄的行為は大きな賞賛を得ました。しかしながら、世の中は依然として移民とその子孫には厳しいものでした。戦前栄えていたハワイ州内の日系銀行、パシフィック・バンク、住友銀行ハワイ、横浜銀行は、真珠湾攻撃のあと撤退に追い込まれました。実質的に白人が経営陣に名を連ねる銀行は、日系人をはじめ、社会のマイノリティである移民と移民の子孫たちには門戸を閉ざしており、新しくビジネスを始めたくても、彼らには資金を借り入れるすべがなかったのです。

セントラル・パシフィック・バンク創始者の1人、サカエ・タカハシ氏は、先に述べたGIビルの恩恵を得て米本土で法律を学び、1948年にハワイへ帰郷し、ホノルル市郡政府内の弁護士事務所で働き始めました。翌年、同じく元2世兵士であるエルトン・サカモト氏も、同事務所に入所。戦火を潜り抜けてきた2人でしたが、帰還して改めて不公平な社会構造に直面し、それならば自分たちで移民とその子孫からなるマイノリティのための銀行を作ろうではないかと決意を固めます。1951年のことでした。

ハワイ日系移民の歴史

タカハシ、サカモトの両氏はこの夢を実現するために、1人の男に連絡を取りました。同じく元2世兵士で、後に日系人で初めて合衆国上院議員となる戦友、ダニエル・K・イノウエ氏です。イノウエ氏は第2次大戦で右腕を失ったものの、GIビルによりジョージ・ワシントン大学で法律の学位を修めたばかりでした。タカハシ、サカモト、イノウエ氏に加え、趣旨に賛同した元2世兵士の若者たちが次々と集まり、皆で夢に向かって前進することになりました。若者たちのグループはアラモアナ・ビーチ・パークに集っては、当時50セントだったプレートランチを分け合いつつミーティングを重ね、少しずつ夢を現実のものへと変えていきました。

当時、ハワイの社会では、それまで隆盛を極めていたさとうきび産業が衰退しはじめ、それに取って代わるように観光業とリゾート開発のブームが訪れようとしていました。この社会構造の変革は、マイノリティにとって、新しく事業に参画する願ってもないチャンスでした。タカハシ氏たちは熟慮の結果、ビジネスの経験がある1世の力を借りることにしました。しかしながら若者たちが世間の信用を得るのは容易ではなく、困難の末に、飯田翠山堂(写真下)を営む飯田コウイチ氏など数人の日系1世のビジネスマンたちの力を借りることができました。多数の1世たちは、東京銀行の傘下に入ることを進めましたが、2世グループは、「ハワイの人々のための銀行は、地元民によって運営されるべき」との信念を曲げませんでした。

ハワイ日系移民の歴史

2世たちの不屈の精神、「Go for Broke(当たって砕けろ)」という熱い思いに、1世の経験と社会的信用が加わり、いよいよ機が熟しました。彼らはハワイ諸島各島の人々に出資を募りました。当時、銀行が出資を募る時は、最低5,000株からというのが平均でしたが、セントラル・パシフィック・バンクは普通の労働者家庭でも無理なく出資できるよう、僅か3株から購入できるようにしました。まさにこの草の根的なキャンペーンが功を奏し、つつましい暮らしをおくる日系人たちが何百人も出資に踏み切り、キャンペーン開始3ヵ月目にして、当初の目的$35万の2倍の$70万を集めることができたのです。

次の難関は、政府の認可を受けることでした。新しい銀行を創設するには、公聴会を開く必要がありました。公聴会で好感触を得ても、今度は金融の世界に通じ資格を持った人物を経営陣に据えなければならない、という難関にぶち当たりました。当時のハワイには、銀行経営に関する深い知識を持った人物の数が非常に限られていたからなのです。米本土で適任の人物を探しましたが、これぞという人材には出会いませんでした。しかし、2世グループの真摯な情熱に突き動かされて、手を差し伸べてくれた人物がいました。日本の住友銀行でした! サンフランシスコ支店を設立したばかりの石井カズオ氏がハワイに渡り、銀行の立ち上げを一から手伝い、のちに頭取も務めました。1954年1月29日、いくつもの難局を経て、やっと認可が下りました。そして同年2月15日、ついに「セントラル・パシフィック・バンク」は開業しました。当日は1万発ものお祝いの爆竹が周囲に鳴り響き、口座を開く人々の長い行列がいつまでも続いたそうです。「皆のための銀行を!」と、強い思いに突き動かされ走り続けた2世ベテランたちの夢がかなった瞬間でした。

ハワイ日系移民の歴史

現在、セントラル・パシフィック・バンクは、ハワイでも4番目の規模を誇り、支店は39にものぼります。日本語のウェブサイト(写真下)もでき、日本人でも簡単に口座を開設することができます。ワイキキ支店には複数の日本人スタッフが常駐し、日本語でのきめ細かいサービスも提供しています。

人々に愛されるセントラル・パシフィック・バンク。元2世兵士たちが作った銀行はますます健在で、ハワイの人々に深く愛されているのです。

ハワイ日系移民の歴史

参照:セントラル・パシフィック・バンク60周年記念資料より。
写真提供:セントラル・パシフィック・バンク
ウェブ(日本語):www.cpb-jp.com

(2014年4月更新)

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