Hawaii-Japan: People's History vol.11 - Okage Sama de
第11回 ハワイ日本文化センターで知る日系人の歴史(1世、子どものために)
アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。 ハワイに観光で来られた方は、日本人を祖先に持つハワイの人々が非常に多いことに気付くはずです。彼らの祖先の歴史を知っていますか? 日系移民史を包括的に知ることで、なぜハワイにはこれほどたくさんの日本人を先祖に持つ人々が住んでいるのか? 日系1世2世たちが、今のハワイ社会に残したものは? なぜハワイの日系人たちは平均的に教育熱心なのか? 何故ハワイの日系2世の人々が大きな尊敬を集めているのか? ひいては、ハワイに日本から移住してきた新移民や日本人観光客が、ハワイの地域社会でなぜここまで親切にしてもらえるのか? などの疑問が一気に氷解するはずです。オアフ島モイリイリにあるハワイ日本文化センターでは、ハワイの日系移民史を楽しく詳しく総合的に学べる、「Okage Sama de Tour(おかげさまでツアー)」を実施しています。このツアーに参加したら、ハワイという土地と人々をもっと深く理解できることでしょう。 ■関連情報/ハワイと日本、人々の歴史、第6回 地獄谷と呼ばれた日系人収容所跡地、ホノウリウリを訪ねて おかげさまでツアーは、ハワイ日本文化センター内のギャラリーで行われます。にこやかな日系4世のガイド、デリック・イワタさんに率いられ、私たち編集部員たちは、静かなギャラリーの中に足を踏み入れました。通常このツアーはハワイの小学生たちがクラス単位で参加するそうです。なので、全く予備知識が無くても、すんなりと楽しめるはずですよ。さらに、日本語ガイドをリクエストすることも可能です。 ギャラリーの入り口には、ずらりと石の柱が並んでおり、そのひとつひとつに日本語で言葉が刻まれていました。孝行、恩、我慢、頑張り、仕方がない、感謝、忠義、責任、恥、誇り、名誉、義理、犠牲… これらは、日系1世の人々が大事にした価値観です。より良い生活を求めてハワイに渡り、大変な困難の中、汗にまみれて働きぬいた1世の人々の、つつましいながらも誇りある生き方がじわじわと胸に迫ります。特に「仕方がない」という言葉は、当事の大変な暮らしを思い起こさせるものでした。 初めて日本からハワイに153名の移民がやってきたのが1868年。彼らは元年者と呼ばれています。1885年に日布移民条約が結ばれ、契約移民として多数の人々が続々とハワイへとやって来ます。主に広島や山口、熊本などの農村から、より良い生活を夢見て、いくつかの行李に身の回りのものだけを詰めて、ハワイへ渡った1世たち。彼らが働いたのは、ハワイ各地のプランテーション(主にサトウキビ農場)でした。彼らは出身地ごとに分けられ、様々なプランテーション・キャンプに居住。個人名ではなく、番号で名前を呼ばれながら、農場での過酷な労働に耐え忍び、故郷へ送金を続けました。当事日本では年収が10円だったところ、ハワイでは212円が稼げたので、できるだけ節約し日本へと送金したわけです。ツアー中、「持ってみてください」と私たちに渡されたのは、実際のサトウキビ。葉がついた、身長よりも高いサトウキビはズシリと重く、それを1世の人々は、男女問わず、いっぺんに何本も抱えて運ばなければならなかったのです。ツアーではこのサトウキビのように、当事を偲ばせる実際のものを多数見て、手に触れる機会があり、さらに当時のプランテーション・ハウスや学校、街並みまでが再現されています。ガイドのデリックさんが随所に挟むクイズと、丁寧な解説で、今まで「点」として認識していた日系移民史が、「線」となり、そして「面」として理解できるようになったと思います。 ちなみに筆者の大叔父2人も福岡県の寒村からハワイ島のプランテーション農場に渡りました。彼らの送金のおかげで、祖父は最高学府まで進むことができ、家族の生活も劇的に向上しました。その後、大叔父の1人は帰国、もう1人はハワイで内装業をはじめ成功。私が子どもの時には、毎年クリスマス時期に、大叔父からマカデミアナッツやチョコレート、子ども用のムームーなどが届いたのを今でも覚えています。 デリックさんはまた、「ピクチャー・ブライド」についても説明してくれました。工藤夕貴主演の映画「ピクチャー・ブライド」(1994年)を観た方も多いかと思います。男性が多かったプランテーションに、多数の女性が日本から「写真花嫁」としてやって来たのです。彼女たちの生活もまた過酷なものでした。写真でしか知らない男性、しかも必ずしも写真どおりではない男性のもとに嫁がなければならなかったのですから。しかし、日本で事情を抱えた女性にとっては、人生をやり直すチャンスでもあったわけです。冒頭に述べた「しかたがない」という言葉は、悲劇だけではない、その辺の複雑にして、ある意味ポジティブな心情を端的に表現している言葉といえるでしょう。 また、「子どものために」という言葉も紹介されました。1世は教育を大切に考え、自らが犠牲となりながらも、子どもにより良い教育を施すためにがんばったのでした。現在ハワイの日系人たちは、他の民族グループに比べて比較的に教育を重視し、収入の多い職に付く機会が多いのも、すべてはこの1世の、「子どものために」という「頑張り」に起因しているのです。 時が経ち、プランテーションの暮らしは一つの文化と変遷していきます。日本からは多数の寺社がハワイに別院を建立、聖職者も移住してきます。日系人のスポーツリーグも作られ、プランテーションでの契約が終わった人々は、日本に帰る人、ハワイに残り商売を始める人、他の職に就く人などと様々な進路をとり、次第に2世の時代へとシフトしていきました。 日系2世にまつわる歴史といえば、なんといっても第2次世界大戦と、ハワイと米本土の日系2世により編成された「第442連隊戦闘団」、「第100歩兵大隊」、「ミリタリー情報サービス」などの部隊にまつわるストーリーが、そのハイライトといえるでしょう。こちらについては、次回、じっくりと説明させていただきますので、お楽しみに。 最後にこのツアーの名前「おかげさまで」について、もう一度考えてみましょう。おかげさまでを英語に訳すと「I am what I am because of you(私が今の私でいられるのは、あなたのおかげです)」となります。つまり、これは現在ハワイの社会に生きる日系の人々から、先代、特に1世の人々への感謝の気持ち、オマージュなのですね。同じく、日本出身でハワイに住む私ですが、先に述べた2人の大叔父には、心より「おかげさまで」と頭を垂れたいと思います。 「おかげさまでツアー」は日本人旅行者でも、もちろん参加することができます。詳細はハワイ日本文化センターのウェブサイト(英語)をご覧ください。 ●ハワイ日本文化センター (2014年2月更新) |
匿名 said on 2018年02月25日
Eriko様
2018年1月4日にお返事頂いた者です。福岡の仲村と申します。
メールが掲載されてること気づかず失礼しました。たので
教えて頂いたホームページも含め諦めず気長に探してみます。有難うございました。
Eriko said on 2018年01月04日
匿名様@2017年12月21日 きちんとしたお答えが出来ずまことに申し訳ないのですが、検索してみたところ、海外移住資料館http://www.jomm.jp/というのを見つけました。私が参考にしたのはヤフー知恵袋のこちらの方の答えです。2011年とあるので古いですが少しでも参考になれば幸いです。お力になれずすみません。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1254121207
匿名 said on 2017年12月21日
1899年に7歳だった祖父を残して家族全員でハワイに
移住したそうです。熊本の山鹿出身です。井上の姓です。現在音信不通で全くどこに住んでいるかわかりません。2017年10月にハワイに出かけハワイ日本文化センターにも電話しましまが日本の外務省に電話するようにいわれました。
探す方法とかあるのでしょうか?
移住した祖先の名前は戸籍謄本でわかってます。
よきアドバイスがあればよろしくお願い致します。
Akiko said on 2015年09月22日
匿名様、
こんにちは。
素晴らしいお話をありがとうございます。
日本文化センターのギャラリーツアーはとても見ごたえがありますよ。
ただし、日本語ガイドをお願いする場合、あらかじめの予約が必要となります。
http://www.jcch.com/index.php/thingstodo/tours
こちらのウェブサイトからツアーが申し込めると思いますので、見てみてくださいね。
http://www.thehawaiihochi.com/
ハワイ報知のウェブサイトはこちらです。
ぜひ連絡をとってみられてはいかがでしょう?
匿名 said on 2015年09月19日
始めまして
当方はハワイ移民を初回から送り出した、山口県大島郡周防大島町(旧大島町、久賀町、橘町、東和町)の関係者です。
元年者とされる官民移民以来、出稼ぎ目的の民間移民まで数千人をハワイに送り出しました。一部はメインランド(米本土)に
渡っています。確か、元年者はアメリカではなくハワイ王朝の要請により大日本帝国外務省は各地から募集した邦人を送り出した
と記憶します。
貧困の島、大島郡はこの募集に応じ続々とハワイへ行き、先陣がまた親族、知人を呼び寄せる形で現在まで連綿として続きます。
長男らは家を継ぐために帰国し次男以下は新天地ハワイに残りました。ハワイからの故郷への送金は膨大であり、貴重な外貨を
プールするため、住友銀行はわざわざ隣地柳井に支店を開設しました。
現在も大島町ではハワイ移民に関係しない家は殆どありませんが、いかんせん皆老齢で記憶が薄れていきます。
町内には「ハワイ移民資料館」がハワイからの帰国した成功者の家を使い開設しています。
大島郡民の多くが移住したカウアイ島と大島郡は昭和時代に姉妹縁組を行いました。
この度、その一環として周防大島町親善訪問団が9月下旬に訪布哇カイアイし文化交流を文化交流を行う予定です。
日本時間、9月28日、ホノルルのパシフィックビーチ ホテルにに一行は宿泊します。
この前後にハワイ文化センターに訪問し日本語でのガイドと戦前の移住者の資料を閲覧することは可能でしょうか?
現在のハワイ移民の子孫たちは4世5世となり、日本語が分る人はいなくなりつつあります。
今回の訪問で一部の人は、日本人としてのイアンデンティーを持ってもらうため、秘蔵の系図(ファミリーツリー)を
親族に渡し、ルーツの記録を伝える予定でもあります。
もし山口県大島郡出身のネットワークにアクセスできるなら訪問団の来布哇を伝えて頂けませんか?
静岡新聞系 ハワイ報知も面白いですね。
歴史に「もし」の言葉が使えるなら、ハワイ王朝の要請によって、大日本帝国に併合されていたことは多くの日本人は知りません。
米人プランテーション経営者らによるアメリカ国の強奪によりハワイは49番目の州となりました。
日本国の一県となっていれば、真珠湾攻撃はありませんでしたし、日系人強制収容もありませんでした。
長々とすみません。
Akiko said on 2015年08月08日
平嶋さま、ハワイ日本文化センター内の資料センター(リソースセンター)というところがあります。図書室です。古い日系人の歴史資料がそろっているかと思います。名簿があるかどうかはわかりませんが、ベテランの係りの方がいつもおられますので、ご相談されてみてはいかがでしょうか?
Akiko said on 2015年08月08日
大内様、お返事がおそくなってすみません。
ハワイ日本文化センター内に資料センターというところがあります。もしくはJapanese Cultural Society of Mauiという団体もあります。何かわかればいいですね。
匿名 said on 2015年08月07日
はじめてハワイ・ホノルルを訪問します。母の叔父が昔ホノルルに住んでいたのですが、今は分かりません。母の従兄弟が存命かもしれません。福岡県朝倉郡出身で「平位」という姓です。めずらしい姓ですので、もしかしたら探せるかもしれません。戦前に移民したのですが、その時代の名簿を閲覧することができますか?また、もし存命ならば、その方の現住所を知ることができますか?
福岡市 純真短期大学 こども学科 特任教授 平嶋一臣
匿名 said on 2015年01月29日
私の母方の祖母(ホリモト タツノ)はハワイのマウイ島で1911年に生まれ11歳で家族と帰国したそうです。その後兄2人はハワイに戻ってしまい最後まで会えることもなく10年ほど前に亡くなりました。病床時に「どこかへ行ってみたいところは?」と聞いたところ「マウイへ行ってもう一度マンゴーを食べたい」と言った事が忘れられません。
40年以上前ですが、兄が亡くなった時相続権利があると手紙が来た事があります。しかし渡米することはないからと、姪や甥に全てを譲ったと聞いています。ということは私の母の従姉妹たちがいらっしゃると言う事。
できれば私の母も80歳になるので会えるなら・・・という思いもありいろいろ検索してこちらを拝見しました。
ハワイで誰かが作った「堀本~家系図」らしきサイトもみましたが・・・どうすれば会える事ができるのか方法がありますか?長文~すみません!! 大内
Akiko said on 2014年02月10日
Ayamamaさま、コメントありがとうございます。とても素敵なクムフラの方ですね。フラがんばってくださいね。
Akiko said on 2014年02月10日
匿名様、コメントありがとうございます。そうですね。ハワイの魅力はやはり人につきると思います。歴史を知ることで、さらにハワイとの絆がふかまりますよね。
匿名 said on 2014年02月10日
はじめまして。ayamamaと申します。
私が通うフラハラウのクムは80歳を超えた高齢です。昔クムがお住まいになっていた場所の周りには日本人が多くクムはあたたかく大きな心で日本人を大切にハワイの人、同様にレッスンして下さったと聞いています。いろいろな時代背景はありますが私はクムをはじめハワイの方々に謝します。
クムはレイラニ姉妹のレイラニ・アラマ
私には大切な方です。
匿名 said on 2014年02月08日
ハワイの魅力の一端が何なのかがわかり、興味が深まりました。先人の足跡が今の日本人に対する評価の基盤になっていることを誇りに思います。今年のハワイも滞在できることに感謝して日本人らしく過ごし、楽しみたいですね。
Akiko said on 2014年02月08日
松元様、コメントありがとうございます。『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』は以前に拝見させていただきました。出演された二世ベテランの方たちの、凛としたお姿と、内面の苦悩を抱えながらも明るく優しくかつ真摯にお話されている様子に、襟元を正して見入ったのを覚えています。この素晴らしい映画を制作された方からコメントをいただき、光栄です。ハワイに住む日本人として、これからも歴史を掘り下げて発信していく所存です。私たちに何かお手伝いできることがあればと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。
Akiko said on 2014年02月08日
匿名様、
リサイクルショップには、いろいろなものがあって、見ているだけで楽しいんですよ。リリアン編みやきせかえ、ぬりえなど、今の日本ではもうあまり見なくなったような、懐かしいものもたくさんありました。
匿名 said on 2014年02月07日
20年近く前にハワイに住む知人に連れて行ってもらった時にはなかったのですが、数年前からはリサイクル・ショップが併設されています。不要になった日本的な物(食器・風呂敷・浴衣・扇子・等々)を寄付してもらってセンターの維持費に充てているそうです。手ぬぐいでも湯呑でもうちわでも、「まだ十分使えるけれど・・・」というものを持って訪ねてみてください。先人の努力と苦労に「おかげさまで…」という気持ちを込めて。
匿名 said on 2014年02月07日
Akikoさま
はじめまして。
私は、ハワイの日系移民の歴史を日本に伝え、その活動で得た収益でマウイ島のKansha Preschoolをサポートする事を目的としたNPO法人NAC-Jを主催している松元と申します。
現在、私どもで制作した映画『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』を日本国内で上映しています。
この映画は。31名の二世ヴェテランと3名の奥様のインタビューを中心にまとめられたドキュメンタリーです。
但し、二世と言えば戦争の話に特化しがちですが、私の映画は戦争の話だけではありません。
二世は何故特別な世代かと言えば、一世の苦労を目の当たりにしている唯一の世代だからです。
私の映画でも、二世の物心がついた時の話から、自らのさとうきび労働、住んでいた家や家庭内での言葉、沖縄系やHAPA家庭への差別、そして戦争で目にした思い出と戦後の活躍まで紹介しています。
まさに、「ハワイに残るもう一つの日本史」です。
おっしゃるように、多くの日本人がハワイを訪れ、アメリカでありながら安心して滞在でき、どこでも歓迎されたり経済活動が出来るのは、彼ら日系人がハワイで頑張って日本人に対する信頼を築き上げてくれたからに他なりません。
ボクたちは今、その日系社会を現在のものにしてくれた二世の歴史を知り、感謝する時代に来ています。
しかし、どんどん二世は亡くなっています。私の映画に証言した34名のうち、すでに11名が亡くなっています。
まさに感謝を示す最後の時期でしょう。
どうぞハワイの地で、多くの日本人観光客や新移民の日本人に対して、日系の方々の苦労をお伝えください。
私の映画の事は、Facebook
https://www.facebook.com/GoforBrokeHawaii
或いは、ブログ
http://ameblo.jp/niseiveterans-movie/
でご覧ください。
長々と失礼しました。
With Aloha,
Akiko said on 2014年02月07日
匿名様、コメントどうもありがとうございます。同じ日本人の人々が異国でがんばって、立派に根を下ろされていることを知れば知るほど、私たちもがんばらないと、という気持ちになりますよね。
匿名 said on 2014年02月07日
明子さんこんにちは! ハワイにおける日本人の歴史について、とても判りやすく解説してもらう中で、私たちも
ハワイ滞在中とても気持ちよくもてなしを受け楽しむことが出来るのも、ハワイに渡ったたくさんの先人の想像を超える頑張りがあったからと感じました。今度ハワイに行ったら「ハワイ日本文化センター」に寄ってみたいです。
Akiko said on 2014年02月06日
このハワイの地で、私たち日本人がしんせつにしてもらえるのも、ひとえに日系人の人々が「頑張って」きたからなんですね。