Kyoko & Akiko's "Mahalo Hawaii" vol.2 Hawaii's Sports Legends
話題の人気ショップよりも、近所のパパママストアや老舗店をこよなく愛し、サイミンにはからし醤油をつけ、キカイダーに敬意を払い、ピジン英語もお手のもの …。そんなハワイのローカルライフにどっぷり浸かったライターのキョーコ(地元日本語日刊紙「ハワイ報知」元記者)とMyハワイ編集部明子(地元日本語月刊誌「ハワイパシフィックプレス」元記者)が、ハワイへの感謝の気持ちをこめてお送りするこのシリーズ! 観光情報とはひと味ちがう、目抜き通りから1本奥に入った知られざる、そして愛すべきハワイのローカル情報をお届けします。毎回テーマを決め、それについて綴ったエッセーでローカル度を競うローカル自慢バトル。2人とも友情にひびが入る覚悟で臨む真剣勝負です。応援よろしくお願いしま~す。2人のプロフィールはこのページの一番下をご覧くださいね。
■明子のエッセイ:ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)
今回は私明子の先攻です。さて、お題は何にしようかな? よし、人物ネタでいきましょう。ということで、「日本でも有名なハワイ生まれの名スポーツ選手」に決定!
一番に頭に浮かんだのはこの方。マウイで生まれオアフ島ファーリントン高校を卒業後、プロフットボール選手として米本土でプレイするも怪我により野球に転向。巨人の名選手として活躍し、後には中日の監督も努めた故ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏について、一方通行ではありますが、私なりの熱い思いを語ってみたいと思います。また、文中では親しみを込めてウォーリーさんと呼ばせていただきます。

写真:Robert K. Fitts著 ”WALLY YONAMINE: The Man Who Changed Japanese Baseball” Kindle版より
取り立てて特徴のない私の顔ですが、なぜか数回言われたことがあるのが、「野球解説者の谷沢健一(元中日)に似ているね」というほめ言葉(?)。あの、私女性なんですが…と、困惑しつつも、画像検索をしましたところ、はい、確かに。似ています。認めます。…で、その、谷沢氏がブログで、ウォーリーさんについてこう語っているわけですよ。
“ウォーリーは、日本のプロ野球に、スライディングだけでなく、いろいろな新たな技と心を持ち込んだ。当時は、まだまだ古めかしい根性主義の時代で、鉄拳制裁をはじめ、暴力的な言動が心の「熱さ」として高く評価されていた。ウォーリーもじつは熱い男だったが、熱い心の表し方がスマートだった。”
別に私と谷沢氏は何のかかわりもありませんが(顔が似ているというだけで)、なんだかウォーリーさんが私の師匠のような気がしてくるから現金なものです。ご両親から受け継いだ、日本の魂をもちながら、アメリカの合理主義も咀嚼し、さらに飄々としたハワイ風味をもかもし出すウォーリーさん。
このウォーリーさんに一度だけ、お会いしたことがあります。ハワイ日米協会主催の講演会を聞きに行ったのです。ウォーリーさんはニコニコと優しい感じのおじいちゃんで、新人記者だったわたしにも、とてもフレンドリーに接してくださったのを覚えています。
ウォーリーさんは、日本の野球の根本を覆した人なのです。それまで「お嬢さん野球」と揶揄されていた日本の野球に、本場のスピードとワイルドさを持ち込んだのですね。最初はそのラフなプレースタイルがずいぶんと批判されたみたいですが、のちには熱狂的な支持を得ることになります。また、熱狂を呼びすぎて、対広島戦ではヤクザに脅されたりもしたそうですよ。

ホノルル国際空港内、ウォーリー・ヨナミネ氏の特別展示より
ウォーリーさんの足腰の強さと俊足を支えたのは、プランテーションでの労働でした。ディスカバー日系のビデオで、ウォーリーさんは日本語で訥々とこう語っておられます。
“その頃、あまりお金なくって、何とかして、お父さんとお母さんを助けてあげないといかんかったから。だから一生懸命働いてやれましたけど。まあそんなことをやって(お陰で)、後から野球とかフットボールやった時すごく助かった。(中略)まあ日本でも昔野球やった時、大分苦労しましたけど、その苦労をなんとかして頑張って、やって、まあ今、日本の野球のおかげで、僕の人生もだいぶ変わりました。”
あ、すみません、つい目から汗が。
日本の暮らしが長くても、ずっとアロハ・スピリットを持ち続けたウォーリーさん。たくさんの人々に慕われました。でも病には勝てず、2011年2月28日、ホノルルで永眠。享年85才でした。1994年、日本野球の殿堂入りを果たし、1998年には日本より瑞宝小綬章を受けています。ウォーリーさんの偉業は、ホノルル空港内の展示コーナーでも見ることができます。ウォーリーさん、ウォーリーイズムは今でも日本野球界に生き続けていますよ!
ついつい、熱く語りすぎてしまったかな? キョーコさんのお気に入りのスポーツ・レジェンドはどなたですか?
参考文献:Robert K. Fitts著 ”WALLY YONAMINE: The Man Who Changed Japanese Baseball”
ハワイ報知100周年記念「ハワイ日系パイオニア」
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■キョーコのエッセイ:ジェシー高見山関(渡辺大五郎/ 元東関親方)
明子さん、連載2回目にしてかなりディープなローカル話題で勝負を仕掛けてきましたね。そちらがヨナミネ氏なら、こちらはハワイ出身の人気力士「高見山」で応戦します。
「2倍!2倍!」とハスキー声で布団のコマーシャルに登場、ジェシーの愛称でお茶の間の人気者だった高見山関(本名・渡辺大五郎/元東関親方)。実はワタクシのかつての職場である日本語新聞社「ハワイ報知」と深い絆で結ばれております。ここではその絆を中心に語りたいと思います。
マウイ島生まれのジェシーは、高校時代にはフットボール選手として活躍していました。巡業でハワイを訪れていた高砂親方(元前田山)にスカウトされ、1964年に力士になることを目指して日本に向かいます。このときにホノルル空港までジェシーを送っていったのが、ハワイ報知のポール円福元社長でした。当時、スポーツや娯楽興行のプロモーターをしていた長兄のラルフ氏に頼まれてとのことですが、「ジェシーのガタイの良さにビックリした~」という話をワタクシ、円福さんから少なくとも10回は聞いております。
そのハワイ報知ですが、当時は深刻な経営難に直面しておりました。そんなときに1950年代から付き合いのあった静岡新聞社の故大石光之助社長から援助の手が差し伸べられます。大石社長はハワイ報知創立者の「日本人の権利を守る新聞」の継承こそが日本の新聞人としての本懐であると、買収を決めたそうです。ジェシーが力士を目指してハワイを発った1964年、ハワイ報知は静岡新聞の傘下となり、息を吹き返しました。
ハワイを心から愛していた大石社長は、角界に入り地道に努力をしながら昇進を続けている高見山に惚れ込んでいたといいます。 角界入りから2~3年経つころには、彼の故郷ハワイと日本に強いつながりを持つハワイ報知が、後援企業として高見山をサポートするようになりました。
当時は高見山のすべての取り組みに懸賞金を出していたと聞きます。円福さんの話では、大石社長は懸賞幕には静岡新聞社ではなく、ハワイ報知社として注文していたそうです。きっとハワイ出身のジェシーを思ってのことなんでしょうね。
大石社長は年に1度はハワイを訪れていましたが、その際は高見山がハワイ報知を訪れ、一緒に食事や買い物を楽しんだといいます。また高見山は関取時代、静岡の八幡山で合宿をしており、稽古後に静岡新聞社の社員食堂をよく訪れたそうです。彼の持つどんぶりがまるでお猪口のようにみえたという話は、社員の間でいまも語り草になっているそうですよ。静岡滞在中は地元のいろいろなイベントに参加し、地元住民との親睦を深めていました。

ハワイ報知社入口に建てられた大石光之助氏の胸像を挟んで記念写真におさまる高見山関(左)と円福氏=写真提供/ハワイ報知(1989年撮影)
大石社長は1971年にハワイ滞在中に客死されますが、高見山は寒空の中、羽田空港に棺を迎えにきていました。「到着時刻も知らされていないはずなのに、本当に義理堅い人間」と円福さんはジェシーの人柄を称えます。
高見山はその後関脇に昇進し、後任の大石益光社長が父親のあとを継ぎ、角界入りから1984年の引退まで高見山をサポートし続けました。
ジェシーは故郷ハワイに戻っても礼儀正しく、スター扱いされるのを嫌がり、フツーのおじさんとして行動しています。ワタクシも数年前、カリヒの(今はなき)ケニーズ・レストランで食事をするジェシーに遭遇しましたが、隣席のお客さんにも、ウェイトレスのオバちゃんにも笑顔を振りまいておられました。

写真提供:Japanese Cultural Center of Hawai`i
日本でもハワイでもみんなから愛されているジェシー、故郷の数も普通の人の「2倍!2倍!」なのでございます。おあとがよろしいようで…。
参考文献:ハワイ報知特集号「高見山角界入り50年のあゆみ」「ハワイ報知100年史」
■関連記事/ハワイと日本、人々の歴史 第4回 日本を愛し敬う大きな紳士、高見山大五郎さん
キョーコのプロフィール

神奈川県の鵠沼生まれ、茅ヶ崎育ち。丙午のバブル世代。
1988年からハワイ在住。日本語が飛び交わない米本土の田舎町に留学しようとしたが、父親に猛反対され、交渉の末に決まった留学先がハワイ。
家族
学生時代に知り合った韓国/日系4世の夫と、40歳目前でやっとこさ授かった娘の3人。大規模な再開発計画が進行中のオアフ島カカアコ地区在住。
ローカル歴
1991年からハワイ観光局マーケットリサーチ部にインターンとして勤務、翌年からフルタイムのアジア太平洋地区担当職員に採用される。ローカル率95%の職場で、ハワイアンカルチャーやピジン英語、さらには「仕事は楽しく、職場にはおやつ常備」の精神を学ぶ。
入社5年後、マーケットリサーチの仕事が外部委託されることになり、部署解散。翻訳業などを経て、1998年から創業1912年の日本語新聞社「ハワイ報知」に編集部員として勤務。日系退役軍人や県人会、ゲートボールクラブ、舞踊団体、文化交流グループ、日系食料品店など、さまざまな分野の取材を通じてローカルライフにどっぷりと浸かっていく。
ハワイに支部がある日本の俳句結社「ゆく春」の主宰と取材を通じて知り合い、俳句に魅せられる。数年に渡る主宰からの添削指導を受け、時間のあるときに「ハワイ歳時記」をもとにハワイらしい俳句をぽつぽつと詠んでいる。最近短歌をはじめた明子女史にライバル意識をメラメラと燃やしている。
2013年思い切ってフリーランスに。ハワイ報知のほか、ハワイアン航空機内誌「ハナホウ」やMyハワイなどでローカル情報やハワイアンカルチャーに関する記事の執筆、翻訳作業に関わる。
好きな言葉
ハワイアンスタイルバンドのヒット曲のタイトルにもなった“live a little(もっと人生楽しもう)”。更年期とミドルエイジクライシス(中年の危機)に陥り気味の自分に言い聞かせている。
キョーコのブログはこちらからご覧ください。
明子のプロフィール

福岡県福岡市生まれ大阪府堺市育ち。
現在はオアフ島モアナルアバレー在住。同じくバブル世代。1999年からハワイ在住。
家族
夫(中国、ポルトガル系、その他もろもろ。ハワイ島カウ生まれ、オアフ島パウオアバレー育ち)。義母(ポルトガル系。ハワイ島カウ生まれ)。子なし。
ローカル歴
大伯父2人がハワイ島のプランテーションに移民。1人は日本に戻るが、もう1人は契約終了後もハワイに残り、オアフ島で内装業を営む。子ども時代より、大伯父から送られたマカダミアナッツなどに親しみ、ムウムウ着用。大学時代、オアフ島リーワードに居住していた叔母の家を訪ね、一瞬でハワイの虜に。将来ここに住むと一人誓う。
1994年、語学研修にハワイへ。3ヵ月のつもりが縁あって1年半滞在。その後就職し貯金に励み、1999年ハワイ大学(UH)アジア太平洋研究科に入学。大学&大学院と通算7年通う。学生時代にMyハワイ(当時はハワイの歩き方)にて、大食いクラブ会長A子の名前でB級グルメ情報やB級生活情報などを連載。ハワイのパパママストアをこよなく愛するようになる。
並行してハワイ出雲大社でボランティアをはじめ、その縁でHawaii Pacific Pressでインターン&弟子生活。弟子生活は10年以上にも及び、442連隊、MISなどハワイならではの歴史に心惹かれるようになる。また、YOH(ヤング・オキナワンズ・オブ・ハワイ)という盆ダンスクラブにも加入。退部した今でも沖縄系の盆ダンスの振り付けはばっちりで、あまりの踊りっぷりに驚かれること多数。
某取材でキョーコさんを紹介され、年齢が同じ&共通点多数で意気投合。Myハワイに誘う。紆余曲折を経て、今回の連載が実現。キョーコさんの俳句に対抗したわけではないが、昨年、隔月短歌同人誌「ふゆみどり」を何気なく手に取りいたく感激、ハワイ短歌会に入会。久々の若手気分を味わっている。
好きな言葉
"If can can if no can no can (やれたらやるし駄目なら駄目、気楽に行こうぜ的なピジンのスラング)"。
キョーコ said on 2016年01月23日
匿名さま、コメントありがとうございます。ジェシーの化粧まわし、勉強不足でした〜。申し訳ございません。それにしてもハワイに関して豊富な知識をもっておられるようで、この連載バトルでワタクシのアドバイザーになっていただきたいものです。
Akiko said on 2016年01月23日
匿名さん、素晴らしいエピソードをありがとうございます。与那嶺パールは、ジェーン夫人の才覚と、チンさんの先見の明による投資で、大きく成長したのですね。それにしても、ご本人を前に「おじさん、邪魔だから…」はもう、失礼ですよね~。でも、それに「おお、ごめんなさい」とソフトにお答えされたウォーリーさんの懐の深さがすごいですね!
匿名 said on 2016年01月23日
ウォーリーさんとは、お亡くなりになる一年前にお電話でお話をしました。奥様が六本木で真珠のお店を経営していて、ハワイの二世の映画を制作している旨を伝えると、「もうボクは年寄りで話せないよ〜」と自分の映画だと勘違いされ(笑)。実はウォーリーさんも1399のヴェテランでした。
ホノルル空港の自身の展示の除幕式に出席したウォーリーさんでしたが、展示の写真を撮影しようとしていた彼を知らない日本人観光客の女の子から、「おじさん、邪魔だからどいて!」と言われ、「おぉ、ごめんなさい」と笑いながら避けたことは笑い話として残っています。
ちなみに、奥様の真珠店を開く際のスポンサーとなったのが、アロハ航空の社長のチンさん(日米開戦後の二世たちにVVVとしての奉仕を呼びかけたハンワイ・チンの兄)です。
ボクの映画に証言する「カツゴ・ミホさん」は、大相撲ハワイ場所を10年以上プロモートしました。ジェシーとはずっと交流があり、インタビューの際に着ているのが、漫画家のやくみつるさんがジェシーとミホさんのイラストを描いたTシャツです。
ジェシーにも映画を見てもらいたかったのですが、以前のマネージャーが相撲取り崩れで頭が悪く、映画のことを伝えようとしませんでした。それ以外の連絡先を知らなかったので、観てもらえていません。非常に残念に思っています。
そうそう、ジョシーの化粧まわしの「Go for Broke」も取り上げて欲しかったなぁ。