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第13回 パンチボールの丘周辺

投稿者: ハワイ歩き方事務局 更新日:2007年12月13日

第13回 パンチボールの丘周辺

●古来の名は「いけにえの丘」


昔はハワイアン首長一族の埋葬地だったのです

「パンチボールの丘」と言えば、ホノルルの観光名所の一つですよね。皆さんの中にも、クレーター内の太平洋国立記念墓地をツアーバスなどで訪れたことがあるという方も、多いのではないでしょうか? 死火山パンチボールのクレーターの面積は、なんと約47万平方メートル。その中に、国立墓地が造成されたのは1964年のことでした。現在は第二次世界大戦や朝鮮戦争などで亡くなった3万3000人以上のアメリカ人兵士が安らかに眠り、年間200万人もの観光客がこの地を訪れています。


国立墓地のゲート付近にもPuowainaの地名が

「パンチボール」という名称は、その丘の形からとられたことが一目瞭然ですが、古来ハワイ語では、「Puowaina」(プオヴァイナ)と呼ばれてきました。その意味は「いけにえの丘」。というのも、昔このクレーターの縁には、その上で無数のいけにえが燃やされた、大きな岩の祭壇があったからなのです。ホノルル在住者でもパンチボールの古称を知る人は少ないですが、今でもプオヴァイナという名は、墓所に通ずる道路の名前(Puowaina Drive)として残っています。

クレーターは昔、首長一族の埋葬地として使われており、以前はフィッシュ・ポンド(養魚池)をはじめとする先史時代の遺跡が点在していたそうです。19世紀末、白人勢力のクーデターにより、ハワイ王朝が倒された後で、クレーターに国立墓地を造る案が提案された時のことです。「生者の街の上に、死者の街を造るのか」などと、声高に反対が叫ばれた背景には、クレーターの歴史的重要性も関連していたようです。


コンクリートの展望台が建設された1960年代まで、いけにえの岩は残されていたそうです

●罪人の溺死体を岩で火葬
そのいけにえの岩に捧げられたのは、いったいどんな人たちだったのでしょうか? 資料によれば、彼らは社会の掟、いわゆる「タブー」を犯した罪人たちだったようです。先史時代のハワイには様々なタブーがあり、それを犯したら最後、老若男女の差なく、死罪に処せられるという決まりがありました。女性がバナナや豚肉を食べたり、男女同席して食事をするのもタブーなら、酋長の影を踏んでもタブーと、それこそ生活の中に無数のタブーがあったのです。これらタブーを犯した罪人たちがいけにえにされたのが、前述の岩。岩はクレーターの東の縁、今では展望台があるあたりに鎮座していたそうで、ちょっとした丘にも見える、巨大な岩だったようです。罪人はホノルル周辺だけでなく、他の島々からも集められたといわれています。数世紀にわたり、どれほどの数の人々が、ここでいけにえにされたのでしょうか?


展望台のダイヤモンドヘッドを望むあたりに、昔いけにえの岩があったのです

丘の上でいけにえが焼かれるまでの恐ろしいプロセスは、19世紀末に書かれた数々の文献に詳しく記されています。各島から集められた罪人はまず、パンチボールの裾野にほど近い、ケワロの泉(キング・ストリートとケワロ・ストリートに囲まれたあたりにあった泉。現在はその後に、マッキンリー・ハイスクールが建っています)に連行されたそうです。当時のケワロの泉の別名は、「溺死の泉」。というのも、この泉は罪人たちを溺れさせるために使われていたからなのです。泉の縁でカフナ(ハワイの祈祷師)は、各罪人の頭を水に浸け、溺死させたと言われています。抵抗すれば、自分の家族も殺される可能性があったため、多くの罪人は泣く泣く静かに死んでいったようです。たまに暴れる罪人があると、カフナは次のような言葉をつぶやきながら、頭を押さえつけました。「Moe malie i ke kai o ko haku」(上位者の水に、静かに横たわっていなさい)。


ハワイ語では「いけにえの丘」と呼ばれるパンチボールの丘

遺体はパンチボールの裾野にあったへイアウ(神殿)、カネラアウ・ヘイアウに運ばれ、カフナが厳かな儀式を行っていました。その後、遺体はパンチボール・クレーターのいけにえの岩に運ばれ、火葬にふされたという具合です。人々はクレーターから煙が立つのを見ては、「また、いけにえが捧げられた」と恐々、噂しあったそうです。そして、煙が消えると、遺族はクレーターにおもむき、灰(または遺体の残り)を集めるのを許された、ということです。

ちなみに、このへイアウに最後のいけにえが捧げられたのは、1862年のこと。この年、ハワイ王朝のカメハメハ4世とエマ女王の愛息、アルバート王子が病死。王子が死の床にあった時、カメハメハ4世は王子の回復を祈って、ここでいけにえを捧げたのだそうです。その甲斐なく、王子は亡くなり、この時のいけにえは、ハワイの歴史上最後のいけにえとして記憶されることになりました。なお、問題のいけにえの岩は、国立墓地の一角にコンクリートの展望台が建設された際、取り除かれてしまったきり、今も行方がわからないままになっています。


パンチボールの裾野。昔、左後方にケワロの泉、右半ばにカネラアウ・ヘイアウがありました

●ヘイアウ跡は怪現象の頻発地帯?
今回、写真撮影のためにパンチボール・クレーターを10年ぶりに訪れたのは、ある快晴の朝のことでした。墓地で芝生の手入れをする多くの人々にいけにえの岩について尋ねてみました。すると、誰もが岩の逸話を知っている一方で、岩の行方を知る人はやはり皆無でした。そこでやむなく、代わりに展望台の写真を撮ることにし、クレーターの端に造られた展望台へと向かいました。いけにえの岩があったという、ダイヤモンドヘッドに面する展望台のあたりは、ちょっとした人気撮影スポットのようです。年配のアメリカ人観光客が入れ替わり立ち替わり、写真を撮りあっていました。なるほど、展望台からはダイヤモンドヘッドや紺碧の海、整然と建ち並ぶビル群が一望できます。180度の素晴らしいパノラマが広がっているのです。昔、まさにそのスポットに、無数のいけにえを焼いた岩の祭壇があったのだということさえ知らなければ、私もそこで写真を撮りたくなっていたかも… 展望台からの絶景を前に、そんなことを考えました。


Puowainaの名は国立墓地に通じる道に残されています

最後に余談を一つ。パンチボールの裾野にあったというカネラアウ・ヘイアウは、今では影も形もありませんが、このヘイアウが建っていたキナウ・ストリートとアラパイ・ストリートの交差地点には、現在ホノルル最大の家具店Aが建っています。なるほど、展望台から見下ろすと、Aは丘のすぐ真下に建っています。その時、Aを眺めながら、あることを思い出して「ハッ」としてしまいました。実は、つい2週間ほど前、Aでベッドを購入したばかりなのですが、その際、店の人が「この店には怪談がたくさんある」と言っていたのを思い出したのでした。その時に聞いたのは、陳列してある電動式のベッドの電源が独りでに入って振動を始めたり、折り畳み式のベッドが急に動いたりすることがある、といったことでした。


女神像から丘を見下ろす光景

そこで、パンチボールの丘を下り、もう一度Aを訪れて話を聞いてみました。すると、驚いたことに、何人ものスタッフが、当たり前のように「うん、ここには変な話がいろいろあるんだよ」と答えてくれたのでした。なんでも、店の無人のエリアで人の話し声が聞こえたり、エレベーターの中で霊が目撃されたり、ということが何度もあったそうです。そのエレベーターはまた、月曜の夕刻が近づくと、なぜか勝手に開閉し始めるというのです。また、地下の休憩所のドアも同様に「バタン、バタン」と独りでに開いたり閉まったりするので、女性スタッフの中には、一人で休憩所に行けない人もいると聞きました。そもそも、Aが建った1960年以前、その敷地には別の家具店Bがありましたが、不審火で全焼してしまいました。その跡地に建ったのが、Aという話でした。

もちろん、「その地点には昔、恐ろしいヘイアウがあったから、同店で不思議な現象が起きるのだ」とは、誰も断言することはできません。けれど、少なくとも「ずいぶん面白い偶然」であるとは言えないでしょうか? 真上に迫るパンチボールの丘を見上げ、そんなことを考えながら、Aの駐車場を後にしたのでした。

(森出じゅん)

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